帰宅途中の電車の中で、急にお腹の調子がおかしくなる。
私は周りも認める極度の心配性だ。
心配事を抱え込み、それが膨らんでいくと急にお腹を壊すのだ。
下腹部から「ぎゅんぎゅん」が鳴きだす。
「ぎゅんぎゅん」は私をトイレの個室へいざなう。
「ぎゅんぎゅん」を鳴き止ませるには、その個室ですっきりする以外にはない。
ー ー ー ー
私の会社は午後10時までしか残業をしてはいけないという決まりになっている。
なんとか今日中に終えてしまいたい仕事があったが、それが片付かなかった。
持ち帰って仕事をすることになるが、会社から自宅まで片道1時間かかる。
「今日は3時間ほど眠れたらいいほうだろうか…
…帰ってからも仕事。明日までの仕事なんだよなぁ…つらいなぁ…」
そんなことを思った瞬間に「ぎゅんぎゅん」が顔を出したのだ。
「周りの乗客にまで聞こえるではないか!」と一喝したくなるほどに腹立たしい不意打ちだったが、ヤツには敵わない。
周囲の反応が気になるほどの音が、下っ腹から耳元へと振動と共にのぼってくる。
停車駅に着き、目の前の乗客が席を立った瞬間に身をひるがえし座り込む。
小刻みな体の震えが止まらない。
いや、止められないのだ。
隣に座るスーツ姿の女性の視線を感じる。
「ぎゅんぎゅん」は1人で喜んでいる。
私は歪な姿勢で硬直しながら、なるべく現状から意識を逸らそうとイヤホンを耳にして音楽を聴く。
最寄り駅に着くまでなんとか耐えることができた。車内は混み合っていたが、私の両サイドには誰も座っていなかった。
ここまではなんとか我慢したが、どうやら家まで間に合いそうにない。
たまらなくなり駅のトイレに駆け込むが、どの個室も固く扉を閉ざしたまま妙に静まり返っている。
もうベルトは外していたというのに。
「走れ!」
声が聞こえた。
くっそ!
何でお前なんだよ。
声の主は「ぎゅんぎゅん」だ。
ヤツがそう叫んでいる。
トイレの鏡に映った自分と視線を合わせる。
「いいだろう…決着をつけよう…
お前を自宅でスッキリさせてやる…」
改札を出る。これ系でヤバくなると、股間やお尻に手をやりながらトイレを目指して走る絵があるが、あれは本当だ。
脇に鞄を抱え、片手はお尻を押さえている。
足は大きく開けない。決して油断することなかれ。
大事なことがある。
「体幹を意識する」
ぶれてはいけない。
人通りが少ない路地をあえて選んで自宅を目指す。
ランニングウェアを着たランナーと並走しながら、我が家を目指す。
こんな夜なのに、とても月が綺麗だ。
くっそ、まんまるお月様だ。
「ギューン!!」
今までにない衝撃を下腹部に感じる。
「ぎゅんぎゅん」は進化すると「ギューン!!」になるらしい。
「苦しみを乗り越えた先にはきっと希望がある」
私の苦手な上司の口癖がなぜか頭をよぎる。
「きっと」ってなんだよ。
冬だというのに、スーツの中は嫌な湿気を帯びている。
先程の駅のトイレでみた顔面蒼白な私の顔はゾンビのようだった。
悲しくなる。
いい歳をしたおっさんが、半べそをかきながら深夜の路地を内股で小走りしている。
いよいよ目の前に家が見えてきた。
再度、ベルトを外しにかかる。
「仕事とは段取りが一番大切だからね」
私が淡い恋心を抱いている営業先の受付嬢が頭に浮かんだが、なぜか台詞はクッソな上司のものだ。
深夜の家々に「カチャカチャ」という腰から放たれる金属音が響く。
握っていた拳を開く。
電車に乗っていた時から、おまもりのように家の鍵を握りしめていた。
手汗でベットリしているその鍵を鍵穴に刺す。
ロックが解除される心地よい音が耳に届く。
「家に帰るまでが遠足ですよ」
そんな言葉を、実際の私は学校の先生に言われたことがない。
なのに心に残っているのは何故だろう。
もしかしたら、それはとても重みをもった言葉だったんじゃないだろうか。
解放された。
気のゆるみというのだろうか。
太ももから足首をつたう生暖かさ。
そう、私は解放されたのだ。
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