すれ違いドキュメンタリー

2015-12-22

妄想話

勤続35年。

それだけの年月を同じ職場へ通っていると、その日々の通勤の積み重ねでちょっとしたドキュメンタリー番組が作れそうな気がする。

通勤電車内の日々を撮影するわけにはいかないが、同じ時間に同じ車両に乗ってきていた男の子が、時の流れによって今や高校生になっている姿を目にすると、感慨深いものがある。

私が社会人になりたての頃、通勤電車内では今のように皆が何かしらの電子通信機器を手に取って、無言でそれに向き合う場面なんて見られなかった。

駅の売店で『新聞』を買い、皆がそれを縦に折って持ち、車内はひしめき合っていた。今のように妙に静まり返っていたりもしていなかった。

 

ショルダーバッグのような大きさの携帯電話が手のひらサイズの小型になり、『わたしモード』というアプリソフトが携帯電話に導入されてから、車内は今のスタイルに近づいて行った。急激なスピードで。

私は電車で酔ってしまうような人間だったので、昔から車内では新聞を見ることはしなかった。今、目の前でスマホを触る老人がいるが、そんなことは怖くて私はできない。

何もせずに俯いているのも勿体ないので、さりげなく人間観察をして電車通勤をしのいできた。

 

生き生きした表情で電車に乗り込んでいた若者が、ある時から元気がなくなり、やがて目にしなくなる時などは長年の経験からか事前に予想が出来てしまう自分が嫌になる。

「何か声をかけてやることが出来たのなら、今も同じ車内の向かいで目にすることが出来たのだろうか」

そんなことを考えてもみるが、人はそれ程弱い生き物ではないことを知っている私は、ただただ彼らの次の場所での幸せを願っている。

 

通勤電車は馴染みの顔だと認識できるほどに見慣れてしまうと、私の場合は新参者に目がすぐに行ってしまう。

不安げな表情で緊張しているスーツ姿の就活生。

手荷物に大きなカバンを持った帰省客。

初々しいカップル。

車内の視線を気にせず喋り続ける外国人旅行者…。

その場限りのすれ違いで、二度と同じ空間に入ることはないのかもしれないと思うと、「人は自由に動き回れるのにこの先出会わない人も私には沢山いるのだなぁ」と地球儀を思い浮かべては、線にもならない程に行動範囲の狭い、小さな点の自分に思いを馳せたりする。

 

特別な「ハイライトシーン」があるわけでもない。

「日常」を繰り返すことで少しずつ移り変わっていく日々を「ガタン」「ゴトン」と乗り継いできた。

 車内から外へ視線を移す。

街並みも35年でずいぶんと変わった。

このままさらに10年もすれば、私は定年を迎える。

分岐器はいつの間にか静かに音を立て、折り返し地点を過ぎていた。

終点はまだまだ、ずっと先だ。

まだしばらくは走り続けられる。

そう自分に言い聞かせる。

 

 

…実は今朝方、私の娘が子を産んだという連絡があった。

 

今日、あなたが気にもせず視界を横切っただけの中年の男は、世界一の幸せ者だったのかもしれない。