人工衛星「よゐ子しゃん」

2017-01-03

妄想話

駅前で信号待ちをしていたら、警察官4人に連れられてパトカーに乗り込む人の影が見えた。

「もう!なんも見えねぇ!」

影は男の声で高笑いしながら、はっきりした声でそう叫んだ。
言葉は続いていたが、閉められたドアによって塞がれた。

犯罪を抑止、監視する目的でこの国の管轄する人工衛星『よゐこしゃん』が打ち上げられてから、ちょうど15年が経ったそうだ。
今ではあまりにも日常生活に根付いてしまったせいで、遥か上空に浮かぶ人工衛星などあらためて意識することはないのだが、それでも不意に人工衛星からの信号を受けた時には緊張が走る。

つい先ほどのことでいえば、駅の改札口を抜けたところで落し物が目に入ったのでそれに手を伸ばした瞬間、小さな警戒音が耳に届いた。

「いやいや、盗んだりしませんから」

独り言を言いながら駅員を探す。
警戒音は『よゐこしゃんビーム』という特殊ビームの仕業だ。

ビームの発射口は、常日頃からこの国で生活を送る者すべての人間に向けられている。
産まれた国、性別、年齢を問わず、すべての生きとし生けるものは犯罪を犯す可能性を秘めているという教訓に基づいている。
国の監視システムが一人一人の表情や行動から性格を把握し、形成された個人のデータはネットワークを駆使して記録し、蓄積しているそうだ。
不穏な動きをするものには目星を付け、要注意人物として専用機関へ随時報告しているらしい。

この人工衛星から放たれる特殊ビームを人体が浴びると、脳へ『警告』が発信される。
はじめは小さな警戒音から始まり、対象人物への信号は徐々に強められる。
監視システムが、対象人物の行動が犯罪未遂に終わると判断するまで、延々と警告は続くのだ。
やがて警戒音はうずくまるほどに大きくなり、眼前には警告メッセージが浮かび上がる。最終的には脳裏に映像を流し、対象者の記憶や感情を利用して犯罪を抑止しようとする。
それらは、個人にむけて作用するために、他人からは目にすることも聞くことも出来ない。
この特殊ビームの有効範囲は、主に上空から見下ろせる陸地全域だが、屋内や地下に至っては監視カメラとリンクして死角を補っているのが現状だ。
映像解析さえ処理できれば、地下に潜りこんだとしても特殊ビームは奥深い階層であっても捕らえることができる。
つまり、それらを搔い潜ることが出来れば特殊ビームは届かないといえるが、そんな「もぐらの様な生き方」は簡単に出来るものではないだろう。
犯罪を未然に防ぐという成果は上々だと一般には報告されている。


 ー ー ー ー


落し物のハンカチを駅員に手渡すとすぐに音は解除された。
これくらいならばいつものことで気にするほどではない。
品物を買い物カゴに入れている状況と同じレベル、至極小さな耳鳴り程度の警戒音量だ。

問題はこの後起きた。
乗り過ごした電車の時間を取り戻そうと焦っていたわけではないが、次に来た電車に飛び乗ると女性専用車両だった。
心拍数が上がる。小さな警戒音が耳元で鳴りだす。
周りの反応が気になり、向かいに立つ女性に目をやる。
しかし私の脳内は表情を伺うだけでとどまらず、その女性の短いスカートを視界におさめてしまった。
己に対して激しい憤りを感じるとともに後悔したが、そんな懺悔は紳士なフリでしかないと見透かされたようだった。
瞬間的に、身をすくめてしまうほどの警戒音が頭に響いてたじろいだ。
眼前には、この状況が改悪した場合に想定される犯罪名とその刑罰例がチカチカと点滅しながら流れている。目を閉じても浮かび上がってくる。おそらくこの場から逃れない限りは何をしても無駄だ。
この手の反応は女性側には慣れのようなものがあるらしく、すべてバレてしまっているのだというが、それでも例にもれず何もなかったかのようにして次の駅で降車するまでの死ぬほど長く感じられる時間を耐え凌いだ。

人間の心理とは不思議なものだ。
心にやましい気持ちがあれば、それがどんなに小さなことであっても人間は罪の意識に苛まれるものだ。
そして、それを天空の「よゐこしゃん」は決して逃さない。



 ー ー ー ー



警察官でありながら、実はパトカーのサイレンの音が苦手だ。
地下路警備第一課、通称「もぐらたたき」に所属してから2年が経った。
もう、百匹くらいの「もぐら」は捕まえただろうか。
犯罪者はだいたい決まって地下鉄の隠し通路や、地下水路で見つかっている。
そのほとんどが、実は再犯者だ。
いくつかの問題を抱えながらも、世論を抑え込んで打ち上げられた人工衛星『よゐこしゃん』だが、その抑制効果のあるビームを浴びたにも関わらず、それでも尚、犯行に至ることがある。
犯罪者は決まって地下へ潜る。


ビームを浴びながらも犯罪を犯すと、この衛星の監視下では生きることは大変困難になる。遥か上空の人工衛星から犯罪者がロックオンされると、逮捕状が逃亡している者の眼前に現れ、耳元にはパトカーのサイレン音が鳴り響く。
やがて、深層心理に深く入り込む映像が脳裏に流れ出し、罪の意識に苛まれる。
犯罪者は衛星の管轄下ではまっすぐ歩くこともままならないほど、それらの信号を受け続けることになる。
やがて耐え切れずに地上へのぼって来たもぐらを、俺たち警察官はもぐらたたきのようにして捕まえればいいのだ。

 

パトカーへぶち込むと、男は急に大人しくなった。
そして、俺の隣で何やら独り言のようにしてつぶやいている。
男は涙を流し、口元からは小さな泡が噴き出ている。

「もうどうにでもなれと思ったわけでもなく、だからといって計画的に犯行に及んだわけでもない。でもあの瞬間の気持ちよさが忘れられなくて…」

「今はいない家族や、私から離れていった知り合いの顔を鮮明に思い出した。これまで自分が行った善意の記憶がよみがえった時、罪の意識に苦悩した。
…でも、それと同時に、これほどの幸福感が得られるとは思いもしなかった。懐かしいあの頃に戻れたような気がして…わたしもまだまだ生きていていいんだと、そう思えた…」

斯(か)くして、この男は再び犯罪を犯すことを決心したそうだ。
もう、何も見えなくなるほどに警告文が目の前でチカチカと激しく点滅し、身動きが取れない中、それでも快楽を求めた。
脳裏に流れるあたたかな記憶の心地よさが、辛く苦しい日常を優しく包んでくれたと、男は署内で述べた。
同じようにして生きる者が、地下道にはたくさんいるのだとも言った。
取調室を出てから気分転換に外をあるく。
近くの自販機でコーヒーを買った。
釣り銭が手からこぼれ、そのうちの一枚が転がって並び合う自販機の裏に消えた。
覗き込むとたくさんの小銭がそこに眠っていた。
頭に警戒音が届いた。
伸ばしかけた手を引っ込める。
温かい缶コーヒーをポケットに忍ばせて、来た道を戻る。
天空を小さな光が流れていった。