治験に参加してみないか、とその研究所に所属する元彼に誘われ、話を聞くだけよ、というつもりがこうなってしまった。
非公開で募集をかけられない案件だから調べても出てこないよ、とその彼は口にするが、たぶん彼の研究施設自体が非公開だろうという想像はついた。
人体をそっくりそのまま復元させる。
その為の治験モニター、などという嘘のような話。
「もしも、人が簡単に死ぬことがなくなったらさ、この世界はどうなると思う」
簡単に、などと言ってしまう彼を見て相変わらずなんだと、そう思った。
「もしも、が、なったらさ、どうなると思う」
という懐かしい問いかけ。
それが彼の口癖。
彼の口からこの文句が漏れることに、得も言われぬ震えのような反応をこの身に感じ始めたのは、それはいつの頃からだったか。
もしもこの芸能人が犯罪者だったら、あの国とこの国が戦争をしたら、この空き店舗に個人飲食店が入ったら、この建設中のビルの上から機材が落ちてきたら、などなど。
彼が語った、そのもしもの全てが実際に起きてしまう。
だから彼と会って、またそんな口癖を耳にしたものだから、ああそうなるんだ、と突っかかりもなくすんなりと呑み込めたのだった。
彼との出会いは学生の時にまで遡る。
同じ学部で、論文が世間に注目され脚光を浴びるよりもずいぶん前から、すでに一目置かれる存在だった彼の周りにはいつも人だかりができていた。
あたしはそんな研究者の彼にいつしか憧れの気持ちを抱いていた。
同じ遺伝子工学のテーマに着手していたのを切欠として、その延長という成り行きで彼と付き合うこととなり、けれど彼の一言を発端に三年で別れた。
あたしは卒業後、全くそれまでの学問と関係のない仕事に就き、そこで出会った年上の上司と結婚した。
彼の卒業後の消息はといえば、しばらくは大きな研究施設に身を置いていたそうだが、やがて周りの反対を押し切って怪しげな研究所に渡っていったと、人づてに聞いた。
「alias」という妙な組織集団に属しているらしい、という噂もそういえば聞いた気がする。
彼とはその学生の時を境にそれっきりと思っていたけれど、彼が昔、あたしに投げかけた言葉の通りに、結局のところ今では時々会う関係が続いている。
彼は何を好んで未だに接近してくるのか。
それに気付けたのは、実は別れてからずっと後のことだった。
彼はただ、自分の頭の中にある研究物語に目を通してくれる存在を求めているだけなんだと。
突拍子もなく始まるその話を、長々と語られる終わりなきストーリーに耳を傾けられる人。
彼にとって、それを気軽に仕向けられる相手があたし以外には誰も居ないのだろう。
ー ー ー ー
あたしが受けた非公開の治験。
実用されたら人の生死の概念を大きく変えてしまうもの。
怪我や病で死ぬことがなくなった世界。
例え殺されようとも、姿かたちが一片も残らず、この世界から消滅したとしても、人はよみがえることが可能となる。
ソースさえあれば。
個人を形成する、記憶や肉体全てを含んだ、その大きな括りを研究施設の担当者はソースと呼んでいた。
そのソースは個人を精密に解析したものであり、命のレシピのようなものだと言った。
それを培養液と合わせることによって、最終に解析した時点での個人を復元することができるそうだ。
もしもあたしがこの瞬間に突然死しても、解析したソースさえあれば、それをもとに復元することが可能だということ。
キミが家庭に追われている間にそんな時代がここまで来たんだ、と誰かの言葉が頭に響いた気がした。
ひと月に渡って行われた治験の最終日、施設を出ると、すっかり日が暮れていた。
最終日は時間にして半日以上を要した。
ただカプセルに入って横になり、スピーカーからの質問に延々と答える。
毎回、何がこれほどまでにぐったりと疲れさせるのか疑問に思うが、それもこれもやっと今日で終わった。
ただ、今は気だるさに身を委ねている場合ではない。
いつもよりも時間が長くなると説明を受けていたのに、それをすっかり忘れていた。
まだ夕飯の買い出しも出来ていないし、洗濯物も当然干しっぱなしだ。
夫は最近、ちょっとしたことにも口を挟んでくる。
今日一日、飯も作らずにいったい何をしていたんだ、という叱責が安易に想像できる。
慌てて手に取る通信端末にはまだ着信履歴はない。
夫は幸い、まだ家には帰っていないのだろう。
モニターとしての報酬は後日振り込まれる。
だったら今日くらいは、駅の百貨店で豪勢なお惣菜を買い込んでもいいではないか。
覗き込んだ端末に反射した、少々疲れた顔をした自分をみつめてみる。
誰もが突発的な死を恐れなくなる世界。
そんな世界がやってきたら、気苦労などという言葉は消えるだろうか。
たとえ不治の病にふせたとしても、そうなる以前のソースでもって復元してもらい、治療と対処を施す。
命の困難を乗り越えるまで、何度も何度も自分の屍を越えて。
でも、そのあらたに生まれたあたしを、自分と呼んでいいのだろうか。
あたしの人生を歩んでいると、果たしていえるのだろうか。
病室で病にふせるあたしが、元気なあたしに命をつなぐ。
そんな意識が容易には想像できず、代わりにひょこひょこと現れるあたしの姿を頭の中で何度も繰り返し想像すると、なんだか気分が悪くなってきたのだった。
そんな世界に何の意味があるのだろうか。
夫と共に暮らしていく、この現実の生活が急に色あせてきたような。
あたしは突如として空しくなってきたのだった。
次に彼から連絡が来るのはいつになるだろう。
そんな不純なことを思いながら帰路についていると、治験モニター最終日の今日、施設に顔をみせた彼の言いつけを思い出した。
ああ、そういえば帰り道は表通りを迂回するように、と指示されていた。
あの不思議な力を秘めた口癖ではない。
それに不穏な出来事を暗示されたわけでもなかった。
けれど、自ずとその言葉に従って最寄り駅を目指すことにした。
狭い路地に入り、車一台通るのがやっとの道幅だった。
ヘッドライトを付けない大型ワゴンが突如背後から迫ってくるのを見つめていた。
命が飛び散る音が聞こえた気がした。
あたしの耳元で。
朦朧とする意識の中で、あの日の記憶がよみがえる。
付き合っていた頃の彼が、あたかも目の前にいるかのように。
「もしも世界がひっくり返っても、僕はキミとは結婚しないと思うんだけどさ、キミはどう思う。
あぁ、でも延々に僕たちの関係は続くよ。
仮に、死んでもね」
あたしはその言葉を投げかけられ、怒り、哀しみ、恐怖といった感情に絞殺されそうな思いをした。
そして、別れを告げた。
偶然、思いついたかのようにして、相手の気持ちを考えずに咄嗟に口にしたような。
そんな人の気が知れなかった。
なのに。
それなのに、未だに彼の言葉に縋っている。
ー ー ー ー
重い体はぴくりとも動かせない。
生暖かい液体があたしを包み込み、このまま深く深く、ここに沈んでいきそうだった。
ずぶずぶと、アスファルトに埋まっていく指先の感覚が、脈を打つたびに、徐々に薄れていく。
ふわふわとした視界がたまらなく心地よかった。
けれど、あたしはそんな夢心地を邪魔されてしまうのだった。
用意周到された赤ランプ。
辺りをまぶしく散らす車にあたしは乗せられ、来た道を戻っていくのを感じた。
車内で聞きなれた声を耳にして安堵する。
「これより、本題に入る。
交通事故、瀕死状態からの生身への薬剤投与。
あと数分でそちらへ戻るので、人体損傷部の確認をまず優先してくれ。
ああ。
それは後でいい。
それから、死亡した場合に備えて、新体蘇生実験も同時に開始」
ほらね、あたしは死なない。
あなたの中で、死ねない。
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