帰宅して、食事を済ませ、さて一息つこうという時になると決まって浴室に移る。
服を脱ぎ、裸になり、栓をしただけの浴槽に入る。
そこから、おもいきり蛇口をひねる。
勢いよく水が浴槽に広がっていく。
足を十分に伸ばせるタイプの浴槽の底へ、背中を合わせる。
徐々に溜まっていく水。その圧力を肌で感じる。
水の中で息が続く。
長く息が持つという意味ではない。
延々と水中に潜っていられる。
それが異端なことだと知ったのは小学一年生の頃のプール教室だった。
息継ぎをせずに25Mを潜って泳ぎ切ろうとする私を、空想にでも耽って、しばらくの間ぼんやりと眺めていた先生が我に返り、慌てて止めに入ってきたのだ。
泳ぎが得意な人であれば息継ぎなしで到達する距離かもしれないが、何泳ぎか分からないようなフォームで、極端に遅くじりじりと進むスタイルは溺れているとしか見えなかったらしい。
度々、浴槽に潜っているとその時の先生の焦点が合っていなかった顔を思い出す。
ぷくぷくと、自分の体から気泡が立ち昇っていくのを見つめていた。
この先、本当にこの考えを実行していいものかと、水の中で丸一日過ごして考えてみた。
音声チャット「SayClub(セイクラブ)」で知り合った盲目の老女がいる。
年金生活で一人暮らしだという老女に、
「私は休日はずっとアクアリウムを眺めて過ごしている。落ち着くんです」
と伝えると、
「水槽の中はどんなに幻想的でもわたしには見えないのよ。でもね、水の音は好きよ。わたしも落ち着くの。川も海も、雨も、水道の蛇口から流れる水の音ですら、わたしは好きよ」
と返ってきた。
老女は普段は明るいのだが、ふと盲目で一人で生活しているということに酷く恐怖感を抱く時があるといい、そういう雰囲気を醸し出すときの老女は声も小さく、会話も少なかった。
私はある日、一つの提案をした。
「実は私の仕事、家庭にアクアリウムを提供する仕事をしているんです。
はじめは、依頼主の要望に沿ったデザインを提案して、水槽を家庭に設置するところから始めさせてもらうんです。必要であれば月額料金とは別に、月2回までは無料で水槽の掃除と水槽内の飾りの配置換えなどのサービスをさせてもらっているんです」
「あら。じゃあ、自分の好きなことを仕事になさっているのね。あなた、よかったわね」
「そうなんです。…で、ですね。実はこの業界でしかまだ知られていない新種の魚が見つかったんです。そいつがとてもお利口な魚なんです。たぶん、世界で人間の次に頭がいいんじゃないかって…あ、それは自分で勝手に思ってるんですけどね」
休日はいつも独り。
アクアリウムは趣味であって、本業でなはい。
私は噓をついた。
仕事は契約社員の営業マンで、職場では仕事の話以外は一切しない。
仕事以外で嘘をつくのも久しぶりだなと思いながらも、何も考えずによくもこんなに出鱈目なことが口から出るものだと我ながら感心してしまう。
「その魚。大きいという点だけがネックなんですけど、部屋に居れてみませんか?」
「え?でも。…少々の費用は別にかまわないの。でもね、やっぱりちゃんとした世話はできないと思うの」
「だいじょうぶです。身体は大きいのに少量の餌さえ水槽に浮かべれば、後は何もしないでいいんです。
それに、言ったでしょ?頭がいいって。
その魚は自分で水槽内の藻も食べれば、不純物を浄化する能力さえも持っているんです」
「…ほんとうにそんな魚、いるのかしら」
「騙されたと思って、飼ってみませんか?私の部屋、そいつのおかげで狭くてちょっと不便なんです」
幾度のやり取りの末、老女の家に私は「新種の魚」として住むことになった。
水槽越しに老女と視線が合う。
見えているようで見えていないような、不思議な感覚がそこにある。
水面に餌が浮いている。
シリアルをつかんで口に含む。
水中で食事をすることに慣れていないため、口をあけると大きな泡が水面で弾けてしまう。
老女は満足そうに笑っている。
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