右腕を差し伸べて、左手で、

2017-08-06

妄想話

まだ明け方で部屋は薄暗かった。
うつ伏せで寝ていたからだろうか。
顔の下に敷いていた左腕に、よだれが滴っていてみっともないなと感じる。
もう片方の右腕はというと、何かを掴もうとするかのように前方へ伸びている。
でもその先には見慣れない壁があるだけで何もない。

そうだ。
あたしはこの連休を旅行にあてたのだった。
喧騒から逃れるようにして、たどり着いたのは地方の田舎町。
温泉があるわけでも豊かな自然があるわけでも、珍しい特産品があるわけでもない。
高速道路が町の脇を通っていて、通過されるだけのこの土地は失礼ながらないもの尽くしだ。
そんな町をどうしてあたしが選んだのかといえば、あれ、どうしてだったかを思い出せない。
 
とりあえず起きて左腕を拭おうと思ったけれど、でも、あたしは動けずにいた。
視線の先、目の前の伸ばした右腕の上を、とことこと歩き出す小さな人のようなものが見える。
寝ぼけているのかも、と強くしぱしぱと瞬きをするけれど、右腕を徘徊するものは消えない。
それは確かに右腕の皮膚からゆっくりと浮かび上がってきた。
腕を動かさぬように注意して、顔だけ傾ける。
小さな動くものをそっと覗き込んで息を飲み込む。
今のあたしとそっくりだ。
肘から手首のあたりまでを往復していたかと思うと、突然立ち止まりあたしの腕に触れるようにして足元に屈みだした。
そして再び上体を戻す時、その流れを見つめていたあたしは身震いしてしまった。
小さな赤ん坊のような、さらに小さな生き物をあたしの腕から引きあげて来たのだ。
衣服を一切身にまとわず、裸で肌色の平野にそれは丸まっている。
何も聞こえないが、大声で泣きわめいている。
そして先ほど引き上げていた小さなあたしは、急に年老いたように背が曲がり、動きが鈍くなった。
そこに寄りそう影は先ほどまで泣き叫んでいたはずの、成長した小さなあたしだった。


 ー ー ー ー


これはいったい、何なのだろう。
その歩みの連鎖を目で追ってしまう。
だれど、もう我慢の限界だ。
その小さなあたしを右腕から払わずにはいられない。
腕の上を自由に這いずり回るそれがこそばゆくて、無性に痒くて痒くて仕方がないのだ。
もう我慢できず、あたしは左腕を振り下ろしてしまった。
あたしは簡単に潰れた。
抑えていた手を腕から離して覗くと、真っ赤な雫のようなものと丸まった塊がへばり付いている。
でも、それで終わりではなかった。
生まれるというよりも、埋葬されていた墓場からよみがえるような具合だった。
四つん這いの状態で皮膚から浮かび上がり、そして虚ろな表情でゆっくりと歩き出す。
そしてまた、あたしの腕から新しい生命を引き上げてくる。
あたしは我慢しきれなくなると、その都度、小さなあたしを葬る。
叩き潰したり、掻き毟る最中に磨り潰したり、指先で弾き飛ばしたりと奇妙なやり取りを延々と繰り返している内に、あたしの右腕と左手の指先は徐々に真っ赤に染まっていく。
枕元に鉄の匂いが漂い始めた。
それでも構うことなく、引っ切り無しにそれは這い出てくる。
居なくなったその場から、次に次へと新しいあたしが姿を現す。
 
「ジリリリリリリ…」
 
突如、建物の中に大音量の警報ベルが鳴り響いた。
思わず身をこわばらせる。
ふと右腕を見つめるが、真っ赤に染まっていたはずの腕は平常を取り戻していた。
 

 ー ー ー ー
 

煙のにおいを感じる。
でも、これはたぶん夢だ
だって、ずっと警報ベルは鳴り続けているけれどフロアを走り回るような音や誰かの叫び声など聞こえないし、部屋にも連絡がこない。
先ほどの小さな私もやっぱり夢だったんだと、そう考えてみる。
この世界は夢の世界に違いない。
その内、目が覚めるんだ。
火事だとか。
だって、こんなことがあるはずがないもの。
煙が廊下の方から部屋の中へと立ち込めてきた。
これも嘘よ。
違うもん。
と思いながらも、あたしの足は勝手に非難を始める。
あれ、何でだろう。
入り口のドアが開かない。
居間を横切り、非常ドアに近寄って力を込めるがここも開かない。
手が真っ赤になるまでドアノブを握りしめてもドアはビクともしない。
冷静に努めていたはずが、実はとんでもなく慌てていて引き戸を一所懸命に押していたことに気付く。
そんな自分に憤怒するが、この時を待っていたかのようにそろそろと臆病な感情が現れ、その勢いのままに非常階段を駆け上ってしまう。
だって。
だって、下の階の方は火と煙で何も見えないから。
あたしは誰に言い訳してるんだろう。こんな時に。
涙が滲むのは煙だけのせいではない。
口元を服で押さえ、螺旋階段をぐるぐるとまわるにつれて、サイレンの音が近づいてくる。
どうでもいいから、さっさとこんな世界から抜け出したい。

階段を駆け上った先、何もない屋上から広がる光景を見て私は絶句した。
周りの建物も煙を撒き上げながら、真っ赤な炎を吐き出している。
一体、この町に何が起きたのだろう。
建物の上には必ず一人の人影が見えて、同じようにして辺りを見渡しておろおろしているのがわかる。
田舎町に響き渡るけたたましいサイレンが心臓を締め付ける。
 
「ここから、早く助けて」
 
あたしの叫び声は裏返り、建物が燃え盛る音とサイレンを鳴らしながら街中を走り回る赤い車にかき消される。

どうしてあたしの建物の下にだけ車は止まってくれない。
うな垂れて崩れ落ちていると、また右腕にあの感覚がやってきた。
赤ん坊の姿で這い出てきたものが、立ち上がり、成長していく過程で自分の分身を汲み上げるという、先ほどの一連の流れが脳裏によみがえってきた。
しかし、次は少し違っていた。
小さな赤ん坊から成長し、成熟していく中で向かいから男性が現れ始めた。
見覚えがある。
あたしはなぜか男に騙されやすく、交際に関していい思い出がない。
気付けばあたしは次々にやってくる男だけを必要に潰し続けていた。
煙と焼け付く熱風が立ち込める中で、ぱちんぱちんという音が辺りに響く。
記憶の奥に封じ込めたはずの記憶なのに、その顔を見る度にそういえばこんな男が言い寄ってきたと思い出す。
もっと違う男がいたはず。
あたしに見合った、たった一人の愛しい人が。
違う、この男も違う。
小さなあたしは男と交わることなく、ずっと腕の上を往復していたが、やがて静かに身体の輪郭を消していった。

建物の周りが真っ赤な光で囲まれている。
先ほどまでのサイレンがなくなり、急に静まりかえる。
他の建物から救われる人たちをしり目に、あたしの居る建物がガラガラと崩れ始めた。
反対側に逃げ出し、屋上から下を見下ろすと、そんなあたしを助けようともせず、車内から身を乗り出して見つめている人影が目に入った。
原型を崩した、真っ赤な人のようなものが見上げている。
どこかで見た気がする。
あれは誰だろう。
間もなく、上空から巨大な手が振りかざされたりするのだろうと、建物ごと崩れ落ちる刹那、そんなことをあたしは思ったのだった。