忘却の背中の

2017-08-16

妄想話

 母は産まれて間もない私を抱いて、こう言ったそうだ。

 
「この子は世界地図と一緒に産まれてきたんねぇ」
 
生まれながらにして背中が痣だらけであった。
母の言葉の通り、地図でも描かれているかのようにして、生まれ持った灰色の痣が背中を巡っていた。
それについて医師は、痣は徐々に薄くなり、その内に消えてなくなるでしょうと言ってのけたそうだ。
しかし、成長するにつれてその痣は躰を蝕むように広がっていった。
ある程度の読み書きができる頃には、痣は背中を抜け出し、手や足、首筋、そして顔にまで飛び火し始めていた。
あたしはそのまだら模様の頃のことをなぜか今となってはよく思いだせない。
聞けば、小さい頃から既に周囲と距離があったそうだ。
しかし、あたしはいつも自分の意思で一人を過ごしていたつもりだったから、そんな風に見られていたことが意外だった。
一人の時間はいつもノートに何かを綴っていた。
学校や家で起きた日々のことなども書いたが、多くは自分の躰に関することが多かったように思う。
幼心に、やはり周りと見た目が違うことを憂いていたのだろう。
友だちをつくらず、かといって虐められることもなく、全身に広がる痣とは対称的に、あたしは群れの中で薄く透明な存在になっていった。

 ー ー ー ー

不憫に思った父親が臨床実験をあたしに受けさせたそうだ。
毎週病院に通い、時には入院もしたが、痣は濃くなりながらその領域を広げた。
あたしはこの星に生きるどの人種にも属せない、灰色の肌を持った少女に成長していった。

非行少女、と言っていい。
10歳に満たなかったあたしは親の元から姿を消し、それからしばらく世間から逸脱した生活を送った。
当時のあたしはあの年齢で考え得る、生きる術の全てをお金に変えた。
いけないことをたくさんした。
疚しいことなど数えきれないくらい。
その見返りとして手にしたお金の全てをつぎ込んで、あたしは残っていた肌の色を変えた。
両親と同じ色の肌の部分を捨て、灰色の痣と同じ色で刺青を施し、躰を完全に塗り替えた。
16歳を迎える頃に警察に保護され、自宅に戻された。
そこから、自分で働いて暮らすからと家を出るまでの数年間を両親と生活を共にした。
全てが灰色に染まったあたしに対して、両親は問い質したり、咎めるといったことはなかったが、それが何となく辛かったのを覚えている。
 
 ー ー ー ー

それは、あたしが周りの人に迷惑をかけたことからくる罰だったり、躰を弄った代償だったのかも知れないと、少し思った。
家を出てしばらくしたら躰に異変が生じ始めた。
徐々に痣が薄くなっていったのだ。
刺青で取り繕った部分だけが取り残され、生まれ持った痣、成長と共に増えていった痣は今ではすっかり消えていってしまったのだった。
不格好でまばらに入った灰色の刺青。
簡単には消せない。お金がかかる。
またあの頃と同じような手段でお金を稼ぐのもどうなのだろうかと、過去を顧みているとなぜかあのノートが思い浮かんだ。

久しぶりに実家に帰り、挨拶も其処等に自室に籠り、棚を漁っているとかわいらしいキャラクターが表紙のノートが何冊か出てきた。
ノートの中には幼い子どもなりの世界が広がっていた。
自分の躰の模様が実は天の神様に選ばれた証であったとか、この皮膚を割いてバッグにしようとする悪者から追われる話など、想像の世界での一人遊びが見てとれた。
現実的ではないそれらの話。
誰に見せるでもなく、あたし自身の為につくった話。
真剣な顔で机と向かい合い、延々と書いていたのだと思うと、あの頃の小さな自分をそっと抱きしめてあげたくもなった。
そして荒んでいた頃も、そして今の自分も。

 ー ー ー ー

台所に向かうと母が夕飯の準備をしていた。
あたしのは、と聞けば今一人分増やしているから、との返事が返ってきた。
台所に母と二人並んで夕飯の支度を手伝う。
今日探し当てたあのノートに、こんな一場面が綴られていた。
何気ない日常を切り取ったもの。
 
「今日はおかあさんのおてつだいをしました
 おさらあらいをしたあとにお母さんにほめられました
 いいことをするとわたしのせなかのアザはきえていくのだときかされたので、
 明日もおてつだいをしたいとおもいます」
 
母にそのことをさりげなく聞いてみると、覚えていると返事が返ってきた。
両親はあたしが全身灰色に染まった経緯と、またその後に部分的に色が戻った症状を知らない。
あたしが伝えなかったからだが、気付いているのだろうか。
 
「おかあさんの言う通りだった
 悪いことをすると灰色が広がって、いいことをすると灰色が消えた
 ほら、もう半分ほど消えてるでしょ
 ここからは更に時間がかかるかもしれないけれど、良い行いを心がけるから
 だから、その、今までごめんね」
 
母はリズムよく動かしていた包丁を一瞬止めてあたしを見やると、背中の地図だけは残しておいてもいいんじゃない、とちいさく笑みを浮かべながら、またトントンとまな板から音を立てはじめた。