ー わたしが
いじめに遭う 理由にたどりつくまでに
死ぬことにした ー
・ ・ ・ ・
突然。
体に衝撃を受けて、倒れ込んだ。
誰もいないと思っていた廊下の影から、スカートを揺らしながら足早に三人の影が去っていった。
世の中では、いじめに遭う人は周りに助けを求められず、じっと我慢して、独りで抱え込んでいると思われている節がある。
だけど、そんなことはない。
なにかしら助けを求めて信号を送っている。
でも、その悲痛な発信に誰かが気付いたとしても、快く受信し続けてはくれない。
自分でも上手くコントロールできない周波数に、わざわざチューニングを合わせてくれる人などいないのだ。
「残念?…いいえ、それがふつうなんだょ」
そんな風に考えると、擦りむいた膝の痛みも、あきらめの気持ちで受け止められる気がした。
・ ・ ・ ・
特定のリズムで頭を微かに揺らしている。
電車の出入り口に寄りかかり、不規則な方向に揺られながら、そのスーツ姿の若い男性を時折り眺めていた。
男性は窓の外を流れる電柱と自分が重なった時に、うんうんと頭を上下に動かしている。
その度に、頬から顎にかけて、涙が少しづつ滴り降下している。
思いつめたような表情で、異様に頭だけを前へと突き出していて、覗いたシャツの襟は黒く汚れている。
わたしの他にも乗客はいるけれど、誰も男性に関心を向けない。
そんな風に。
誰からも気にかけられない時間が、わたしも欲しい。
どうせなら。永遠でもいい。
淡々と、電車は決められたレールの上を進んでいく。
わたしは、今日で自分の命が尽きる運命だったとしても、何も後悔することはないように思う。
否応なく、わたしを小さく揺り動かしていた振動が止み、乗車口が開く。
どこにでもいけるし、何にでもなれるような気がしていた。
あの頃、いじめられる前までは。
学校が近づくにつれて、同じ制服を着た人間が群れ始める。
足どりが一層重くなり、呼吸が苦しくなる。
いつものように。
決まったようにして。
何も考えないことに努める。
・ ・ ・ ・
してはいけないと思いながらも、こんなことを、何度も何度も繰り返した。
その、やめられない行為に出会ったのは、いじめに遭うようになって二月ほど経った頃だった。
最寄りの駅から自宅までの途中に、寂れた商店街がある。
夕暮れ時、その建物と建物の間に一本の缶が転がっているのを見つけた。
スプレー缶だった。
何気なく拾って、通学鞄の中にしのばせた。
それからは、誰も来なさそうな路地をみつけると、その通りに駆け込んだ。
隠し持ったスプレーを取り出し、おもむろに地面へ向かって人差し指を強く当てがうと、紺色の塗料が「シュー」という音と共に勢いよく噴出した。
長く開かれたことのない錆びたシャッターの脇で、何を書くでもなく、線を引いたり地面に「〇」をいくつか描いた。
どうしてかな。
決まって、なぜか。
小学生まで、よく一緒に過ごした友人のことを思い出した。
中学で違う学校に通うことになり、それから疎遠になってしまった彼女のことを。
彼女は今、元気でいるだろうか。
「けん、けん、ぱっ」
その友達のおばあちゃんが教えてくれた遊びを、小さい頃、一緒にして遊んだ。
自分の孫娘のことをたいそうお気に入りだった。
そのおばあちゃんの口癖が未だに忘れられない。
「あの娘、本当にかわいいでしょ?優しくて、いい子なのよ」
そういえば、そのおばあちゃんはいつの間にか姿を見せなくなった。
・ ・ ・ ・
スプレーでの落書きを、わたしは止められなくなっていた。
シャッターに吹き付けたり、看板を塗りつぶしたり、カーブミラーに向かってまぶしてみたりと、迷惑な独り遊びを繰り返した。
拾ったスプレーはすぐに空になり、ホビーショップで新たにラッカー塗料のスプレーを買い足した。
それが空になれば、また新しいものを買い求めた。
色は、毎回違うカラーを選んでいた。
やがて、目ぼしい色を一通りめぐった頃に、その魔法のスプレーに出会った。
それまで、漠然とした計画だったものに、はっきりとした手段がわたしの中に明記された瞬間だった。
そうだ。
わたしをいじめた人たちに、少しばかり復讐してから死ぬことにしよう。
わたしの居なくなった世界で、あとは勝手に生きればいい。
・ ・ ・ ・
『雨がよく降る、梅雨時の七月上旬。
学校の校門を出て直ぐのアスファルト。そこに初めの第一歩が現れた』
「 〇 」
マンホールくらいの大きさの円が雨の中に浮かび上がっている。
防水スプレーは無色透明だった。
・ ・ ・ ・
雨が降るたびに浮かび上がり、増えていく「〇」が校内で噂になっても、わたしへのいじめは相変わらずだった。
「〇」は雨が降るたびに少しずつ増えて、そこから移動した。
薄々と何かに勘付いた生徒の誰かが、継続して写真に撮っていたようで、その写真が「つぶやき」という投稿サイトに載せられ学校の外へ拡散された。
その「〇」は校門からの一本道をずっとまっすぐに移動していたが、車の行き来が多くなる通りに出ると、左右に分かれて更に分裂し始めた。
職員会議の議題にあがるような騒ぎになっても、それはそれ。これはこれ。
わたしへのいじめは終わらなかった。
足を引っかけられたり、ゴミを投げつけられたり、物を隠されたり。
それが止んだかと思ったら、次は言葉をかけられることもなく、誰からも無視されるようになった。
でも、あの「〇」がやがて、いじめの主犯格の家にまで到達したとき。
遂にわたしは報われるような気がして、それだけを願って「〇」の行く末を見守っていた。
わたしが「〇」を地面に描いたのは、学校の校門前から大通りまでの一本道。
そこで、おこづかいが底をついてしまったのだった。
最後の一缶が空になる前に、「〇」の横に一文添えた。
「いじめっ子の家」
そこからは勝手に「〇」が伸びていった。
野に放たれたそれは、親の願いを受け止め、歩みを止めることなく広がっていった。
誰かがわたしの信号を受け止めてくれたのだと感じると、少しだけ心が癒された気がした。
・ ・ ・ ・
靴箱を整頓していると、懐かしいものが出てきた。
一本のスプレー缶だ。
中身は入っていない。
あの防水スプレーだ。
おとなしかったわたしが、思えばよくあんなことをしたものだと思う。
でも、それで、今のわたしがあるのだと思う。
何年も前のこと、学生の頃のことだ。
わたしはいじめにあっていて、死ぬことを本気で考えていた時期があった。
でもその前に。
報復として、いじめっ子の家を世間に知らしめようと、防水スプレーを使った復讐を企てた。
雨の日になるたびに浮かび上がる「〇」がいじめっ子の在処をさらすものだとして、投稿サイトで話題となり、当時は大きく騒がれた。
でも、その「〇」は、わたしが全てを描いたのではない。
わたしの元を離れて独り歩きを始めた「〇」の軌跡が、もう少しでわたしをいじめる人達の家に達するという頃、梅雨が明け、そして学校は夏休みに入った。
「〇」は行き先を見失ったかのようにして、歩みを緩め、そして消えてしまった。
でも、わたしはどこかで安心していたのを覚えている。
もしも、夏休みがあけても、変わらずいじめが続くようなら学校に通うことをやめようと思っていたが、なぜかわたしへのいじめはなくなった。
当時の自分へ、かける言葉があるとしたら何を伝えただろう。
こうして今は社会に出て、「大人」の世界に身を寄せても、他人を虐げる心は世の中に溢れていて、残念ながらなくならない。
わたしの中にさえその断片はある。
でも、そんなことはあの頃から解っていたことだ。
空のスプレーに穴をあけて、潰す。
もう要らないものだ。
これから先、わたし自身、わたしが大切に思う人。
かけがえのないものを、誰か、何者かに傷つけられることがあれば、また別の方法でわたしは戦えばいい。
あの頃のように。
恐れずに、最初の第一歩を踏み出せる。
大丈夫。
きっと。大丈夫なんだよ。
・ ・ ・ ・
ー 皆があの騒動を忘れた頃だった、
通学路から外れた道端、
そんなところで、あの浮かび上がる「 〇 」をみつけた
少し前まで降っていた雨水を弾いて、
なんでだろう
たった一つ
それは、浮かび上がっていた ー
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