目が覚めると、左手が自分のものとは違っていた。
手首から指先にかけてが歪であり、人間のそれとは明らかに形が違う。
血色の悪い、鱗うろこのようなものがびっしりと生え、それはごつごつとした灰色の手だった。
そして、確かに左手の人差し指、中指、薬指の爪に「壱、弐、参」と順番に数字が浮かんでいた。
夢ではなかったのだ。
昨晩、眠りの中で男の声を聴いた。
その声はわたしに、願いを三つだけ叶えてやろう、と話しかけてきた。
わたしがどんな願いでもか、と問うと、どんな願いでもだ、お前が現実的に想像できるものであれば叶えられる、ときたものだ。
「ただし、その見返りとして三つ目の願いを叶えたあと、この世界に終焉が訪れることになる。
よく考えて、願いを叶えることだな。
終末の使者と成り得る者よ」
灰色の、枯れた枝のような指を見つめながら、もともとない頭を使って考えをめぐらす。
別に悲観的な心情に毎日が染まっているわけではない。
家族は仲が悪いこともないし、学校の成績だってまぁ、普通だ。
それなりの容姿の整った、それなりの彼女も居て。
けれど、タイクツだし、ツマラナイ。
わたしは今すぐこの世界がどうなろうと構わないんだけど、と思う。
三つ目の願いを叶えるまでもなく、一つ目の願いで世界の終焉を願ったらどうなるのかと、なんとなく阿鼻惨事な場面を想像してみた。
すると、眠りの中で聞いた声が今、耳元で笑うのだ。
「…くっくっく。
お前のそんな浅はかな想像では無理だな。
願いを叶える力を生み出せはしない。
言ったはずだぞ。
現実的なイメージが必要だと」
お前が消えてなくなれよ、と呟くと、俺がどんな存在か具体的にイメージすることが出来たらな、と返ってきた。
その手慣れた扱いに苛立ちを隠せずにはいられない自分が、随分と子どもに感じられて腹が立つ。
しかし、そのやり取りを他所に、どこかで違和感を感じ取る。
でも今、そこを詳しく探るのはよい選択だといえるのだろうか。
この男に背くことで、わたしは無事で居られるのかすら知れないというのに。
嫌な予感がして躊躇してしまう。
「…わかった。この力を信じて、試すことにする。
だから、もう少し時間をくれないか。
ちゃんと準備が整ったら、その時に願いを聞いてくれないか…」
授業の合間、昼休み、放課後。
彼女との会話中にも。
隙間の時間を使っては、動画サイトを漁る。
ああでもない、こうでもないと、目当てのものに行きつくまで検索し続けた。
手袋で隠した左手が妙に脈打つのが感じられる。
やはり映像や音があるほうが、わたしにはイメージしやすい。
そして、休日。
自室にこもって、一つの動画を何度も何度も何度も、気が狂いそうなほどに繰り返し再生して脳裏に焼き付けた。
「…聞こえるだろ。
今から思い描く想像が一つ目の願いだ…」
たぶん、多くの人間があげる願いの一つだろう。
でも、実際にここまで真剣に想像する人間が、はたしてこの世界にいったいどれだけいるだろうか。
「…なるほどな。
悪くないんじゃないか。
まぁ、お前たち人間が望む願いの定石だ」
「…人生を何度やり直しても尽きないほどの、莫大なお金…」
それが、目の前に現れた。
なにもなかった雑木林の奥、草花だけだったはずのスペースに突如、山のように積まれた札束が現れたのだった。
想像するという行為にこれだけのエネルギーが必要なものなのかと、肩で息をしながら冷静に自分の在り様を捉える。
重要なのは目の前の金ではない。
そんなものに目をくらませている状況ではない。
男の声にもっと関心を向けるべきだ。
違和感の正体。
男にとって、この願いのやり取りは当然、わたしが初めてではないだろう。
あの時、願いを三つ叶えると世界に終焉が訪れると、男は確かに言った。
しかし、二つ目の願いで止められる人間がこの世界にどれだけいるものか。
きっと三つめも叶えようとする人間がいるのではないのか。
しかしながら、世界は滅んではいない。
だったら三つ目の願いの後、世界が終わるというのは男のデマカセなのだろうか。
わたしが思い描く終末の業が見当違いなだけなのか。
いや、よくよく考えれば三つ目の願いに抜け道があるということなのか。
いったい、男が口にする世界の終焉とはどういうことなのだ。
「…案外、上手に願い事と付き合うタイプなのかも知れないなお前は。
ただ、誰しもが必ず三つ目の願いを俺に乞う。
お前だって例外ではないさ…」
二つ目の願いを叶える機会は案外早く訪れた。
お金というものは強烈な臭いを放つらしい。
埋めようが、分散させようが、形を変えようが、どんなに慎重に隠しても、必ずその臭いに群がってくる輩がいる。
わたしはそんな欲にまみれた人間の姿が嫌になった。
この世界を正そうと。
だから消したのだ。
想像したのは歴史上の偉人、聖人と呼ばれる人物。
わたしは、完璧な人間などこの世には存在するはずがないと、心の底から思っていた。
だから、そんなわたしが象徴とされるべき人間の存在を心の底から信じ、陶酔しきるには、一度目の願いの時とは比べ物にならないほどの苦しみに身を投じることとなった。
映像に映し出される聖人の姿。
ドキュメンタリー映画の中で、彼は神のような存在として崇められている。
そこになんの疑問も抱かないほどに、繰り返し映像を体に反芻させ、この神に身を委ねた。
二つ目の願い。
「神の存在を、全人類に投影する…」
この願いを叶えた結果、愚かな心は消え去り、この世界はとても静かで穏やかなものとなった。
わたしは灰色掛かった参と刻まれた薬指を眺めながら、もう願いは必要はないのではないかと、どこか安堵した心境でいるのに気付いた。
・ ・ ・ ・
時は流れ。
人という生き物は長く生きれば、考えとは変わるものだ、と知る。
わたしにとってかけがえのない存在。
若かりし頃はそういう存在が現れる事など信じていなかった。
それが今、やがてくる、愛する妻との別れの予感が怖くて恐ろしくて。
わたしはずっとそこから目を逸らして生きてきた。
しかし、どうやらその時が、決断の時が迫ってきたらしい。
どんなにお金を費やしても救えないことがある。
どんなに平和な世界であっても、明日からの生きる希望を失う、そんな悲しみがある。
三つ目の願いはもう決まっている。
しかし、三つ目の願いを想像した先にある世界の終わりが、いったい何を意味するのかが未だに掴めない。
久しぶりにあの男に問いかける。
「…聞こえるかい、ワシの声が…」
「…あぁ、随分と老いぼれたものだな。
人の一生とは何と短く、儚いものか。
これから乞うであろう、お前の三つ目の願い。
やはり、お前も例外ではない」
死期が迫る妻。
わたしはまだ離れたくはない。
出来れば、この先、ずっと。
想像するのは容易かった。
愛すべき妻と過ごした何気ない日々。
その溢れんばかりの思い出を脳裏で思い描くだけ。
「あの幸せなふたりの世界が、未来永劫、命尽きることなく、ここに続きますように」
・ ・ ・ ・
…息が出来ない。
…苦しい。
絞め殺されるような苦しみが暗闇の中で延々と続く。
何が起きたのかと、周囲を見渡せば同じように苦痛に悶える人々が暗闇の中に映る。
隣に妻の姿がある。
まだ病に侵される前の、若く健康的な姿だ。
わたしはというと、左の手はもはや人のものと同じであった。
願いは叶った。
確かに、自分が思い描いた、幸せなあの時代が戻ってきたようだ。
しかし、それと引き換えに与えられた世界の終焉とは、星を失うということだったようだ。
わたしの願いに引き摺られたせいで、人々は死を望めない体となり、この苦しみから永遠に逃れられないことになってしまった。
苦しみに歪む顔をした、妻の瞳からは涙が浮かび上がる。
宇宙空間をもがき、苦悩する妻を抱き寄せる。
「…地獄ね。あなた、ここは地獄ね…」
言葉にもならないような微かな声で、すまなかった、と一言届けるのがやっとだった。
― かつて、地球と呼ばれた星があった。
大地と大気と水を併せ持つ、青く煌びやかな星だった。
しかし、それも今や遠い昔の話。
あの日、星を失い宇宙空間を漂うこととなった人間。
彼らは苦しみと寂しさから逃れようと手をとりあった。
それが幾人も幾人もとつながった結果、新たな塊が誕生した。
この新たな星は未来永劫、決して滅ぶことはない。
同じ苦しみと思想で繋がり合い、今も、この広い宇宙を彷徨っている ―
「…人間とは本当に妙な夢を見せてくれるものだな。
僅か一晩で、己の一生を思い描くとは。
そしてお前の想像する世界の終わり、なかなか有意義であったぞ。
もっともお前は、もうこのまま目覚めることはないがな…くっくっく…」
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