それはある日、この小さな書店の中へ飛び込んできた。
少し遅いお昼ご飯を食べ終わり、店番をしていた妻と交代したところであった。
いつも通り、時刻は二時を過ぎた頃であっただろう。
その時は、確かに店の中に客は一人もいなかったはずだ。
「おい、居るんやろ?」
店の入り口の方から、男が苛立っているような、邪険に呼びかける声がした。
本棚が立ち並ぶ奥を、ミラーを使い確認してみるが、声から想像した中年の男らしき姿はない。
空耳かと思い、レジの横に座ったまま読みかけの本を手に取った。
「おい、なめんなよ!」
突然大きな罵声を浴びせられた私は思わず直立し周囲を見回した。
奥からは妻が何事かと慌てて出てきた。
お互いに怪訝そうな顔で見つめながら、同時にゆっくりと店先に向かって歩き出す。
声がした通路を同時に覗きこもうとすると、バサバサという音と共に一羽の鳥が足元に飛び出してきた。
そして、先ほどから耳にする声で喋りだした。
「借りたもん返さんかい~このドアホー!」
流暢に関西弁を放つこの鳥は九官鳥だとは分かったのだが、問題はなぜこんな言葉を放つのか。
当然だが、この九官鳥に何か借りたこともない。
謎の声の主が解り、ほっとしたのも束の間、口に出すのを躊躇ってしまうような陰険な言葉のやり取りを九官鳥一羽が演じ始めたので困った。
このままではお客さんも迎えられない。
取りあえず、このまま店に置いておくと営業妨害になりそうなので一先ず奥に連れて行くことにした。
「すまんのぉ~」
何だか一仕事終えたような、その声の先にはがっくりと肩を落とし搾取された人の姿が目に浮かぶようだった。
困惑する私たちを余所に、したり顔を九官鳥に見たような気がした。
どうしたものかと深く息を吐き、ひとまず店の表に出る。
ひとまず看板を「Close」にひっくり返し、ゆっくりとドアを閉めた。
ー ー ー ー
鳥は素直だった。言葉以外は。
「○○すぞ、我ぇ!!」
たまに外見に似合わず声が甲高かったり低かったり、なまりがきつかったりと見た目の印象と伴わない人がいるが、こと、この鳥に関しては愛らしい首の動きからは想像も出来ない一思いにまくしたてる口調に、心臓がバクバクしてしまうような恐れを感じた。
日常的にこのような言葉を発していた者の近くにいたのか思うと、何だかとても厄介なことに巻き込まれてしまったような気がした。
ー ー ー ー
老夫婦の私たちには子供がいなかったが、しばらく喋る鳥と一緒に生活をおくる中で家族がひとり増えたような気持ちが芽生えていた。
私たちは「この子」に新しい言葉を教えることにした。
「この子」は大変頭のいい鳥だった。
まるで人の言葉を理解しているかのようにして、適切な言葉を口にすようになった。
時折、その会話の流れで「罵声」が表に出てくることはあったが、一年が経ち、二年が経つといつの間にかそれを聞かなくなった。
三年目ともなると巷で有名な「書店のお留守番鳥」として「この子」を目当てに遠方から足を運ぶ者も現れた。
お気に入りの場所は鳥かごの上。
店内放し飼いのなかで、時折鳥かごの中に入って自分で扉を啄んでは閉めるのが癖だった。
ー ー ー ー
「おはよう」
「今日はいい天気ですね」
「おばあさんは…今日は元気ですか?」
壁に掛けられた振り子時計を、独り静かに見つめる時間が増えた。
最近は「この子」と二人で店を開いている。
妻は体調を崩し一週間前から入院している。
様態はあまり芳しくない。
「この子」は以前よりあまり喋らなくなった。
どちらかと言えば、こちらから話しかけなければ返さない子だった。
私は何かを話したい気持ちになれずにいた。
何気なく口にする言葉も独り言のようなもので、「この子」は首をかしげるだけだった。
それから程なくして、妻との別れがあった。
その別れの日の晩、ふしぎなことがおきた。
「あなた、ありがとう」
「毎日が幸せでした」
鳥かごの上から妻の声が聞こえてきた。
振り返ると「この子」は素知らぬふりで首を機敏に動かす。
私の知らない所で、妻が「この子」に語りかけていたのだろうか。
「…ボクも。
ボクもだ、キミとの毎日が幸せでした…」
ー ー ー ー
これまでの通り、わたしは「この子」と書店を続けている。
振り向いて呼びかければ、妻が奥から出てくるような気さえするが、もうそんなことは起こりはしないのだ。
焦燥感とは、深い海の底に沈んでじっとしているようなものだと思っていたが、案外身近で、ふとした間に顔を出しては胸を締め付けてくる。
これまでは、その間には妻がいつもいて、そんな気配を払いのけてくれていたのだろう。
人は失うものの大きさを計ることなど、いくら歳を重ねようと出来はしないようだ。
想いに耽っていたら、店のドアがベルの音を鳴らした。
「いらっしゃい」
私の後を追いかけて、「この子」も同じ言葉を返す。
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