足元のスイッチをいれると、故人が生前に望んだ「サイズ」と「年齢」で浮かび上がる。
ライトアップされ、もやもやと3D映像が浮かんでくる。
俺の今のオヤジの姿は15歳で30センチの大きさだ。
「…オヤジ、いつも思うんだけどさ、…いや、なんでもない」
(…なんで俺の親父なのに、15歳の姿なんだよ)
どうやら、初恋の彼女と両想いになれた時のことが、生涯を振り返ってみて一番幸せな瞬間だったらしく、その姿でこの世に残りたかったようだ。
オヤジが自分の墓を選びに行く時、移動する足のないオヤジを車で連れて行った。
俺の隣で、いつも無愛想なオヤジがうつむき、恥ずかしながら「15歳の頃の姿に…」と専用窓口で若い女性にむかって話していた時の姿は未だに忘れられない。
オヤジがこういう形になってからの方が、「会話をしている」という気になるのはなぜだろう。
その今までの会話の内容から察して、「15歳の頃の姿」はそうに違いないなと俺は決めつけている。
今日は久しぶりにスイッチを押して「墓」を起動すると、なにやら会話してみたくなった。仕事がうまくいかず、ただ愚痴の聞き役が欲しかっただけだが。
こちらからの問いかけにしか反応しなくなった俺のオヤジは、俺が次に口にする言葉をじっと待っている。
故人は新しい記憶の更新も無ければ、自ら新しく考え、自発的に言葉を発することはない。
なぜなら死んでいるからだ。
故人の生前の記憶がデジタルデータ化され、望んだ姿かたちで映像化されて浮かび上がる。目の前でそれをみつめながらも、あらためて不思議なものだと思ってしまう。
故人は生きていた頃のデータに則って、この世の言葉に反応する。
その言葉に対して故人の答え(考え)が無い場合には何も反応しない。
それが、今の時代の「墓」のスタンダードだ。
バックアップデータは寺に預け、保管してもらっている。
昔のお坊さんは、一族の石でつくられた墓の面倒を見ていたらしいが、今はデータ管理業務が主な仕事だろう。
葬式という名目で、人が亡くなれば営業活動でどこからともなく姿を現す。
オヤジが亡くなった時、「この度は、ご愁傷様でした。…データ管理のお寺はもうお決まりでしょうか?私のお寺なら、もう葬式をすませた晩からでも故人と会話することが可能ですよ」と言われた。
特に決めていなかったので、その住職にお願いしたまま今も契約が続いている。
初めて15歳の姿のオヤジと話をしたのは葬儀の翌日だった。
葬儀の日の晩から会えると言われたものの、それは何か違う気がして、その晩は「墓」を起動しなかった。
これからオヤジとはいつでも会えるが、これからのオヤジは何も変わらない。
老いることもなければ、新しい思い出を作ることも出来ない。
「なぁ、…オヤジ。生きるってなんだろうな」
返事を待ったが、15歳の姿をしたオヤジは何も答えてくれなかった。
そして、それ以外にも、わたしの質問に答えてくれないことは多くあった。
死ぬまで生きても、伝えられない事はたくさんこの世にあるらしい。
「伝えられるうちに、伝えとけばよかったんだよ」
オヤジにそう言うと「そのとおりだ」と返してきやがった。
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